025きママな日記113

昨夜未明から降り出した雨は気温を一気に下げ、春に向けて身体が慣れてきたのに肌寒くて困った事です。この雨も午後から曇りとなって来るらしいので期待しているところです。
雨も小降りになってきましたので一寸庭に出てみたら先日、蕾だったボタンから赤い花びらが見えているではないですか、去年(2024年)は4/25に満開になっていたブログ報告でしたね。2025年は少しだけ満開が遅くなったみたいです。開花が楽しみです。今年の満開は何時になるのかな?蕾は20個ほどあるので満開になったら綺麗でしょうね。雨に濡れた蕾を見ているだけでも癒されます。


雨に濡れたボタンの蕾、可愛いいですよね?他にないか探してみたらイチゴの花も咲きだしていた。
この苺は、歩こう会棒道参加商品として頂いた苗です。
毎年花を咲かせ、赤い実が成るので楽しみなんです。
生で食べたり、ジャムにしたりね。


まだ先だと思っていたツツジの蕾も見つけました。開花が楽しみです。


昨年手入れをせず、伸び放題になってた枝を刈り取りをしたので満開になると綺麗ですよ、それは剪定した方が綺麗に決まっていますよね。(笑)

2025.04.23(雨)水曜日

025きママな日記112

今ニュースではゴールデンウィークの話が多いですね、混むから何処にも行きたくないけれどお勤めの方は、普段はお休みがとりにくいから混むゴールデンウィークに出掛ける。私達だって子供が小さかった時、ゴールデンウィークに出掛けクタクタになって帰宅したことがあった。トップシーズンは家に居た方が良いとその時は思うのですが会社勤めをしているときは無理なんですよね、混む時しか遠出できない。2025年も前半のゴールデンウィークは有給休暇をとるようになるから後半にお出かけになる方が多いのかな?毎日頑張って働いているお父さん、お母さんは大変です。前半に出掛けるとしたら有給休暇をとる事になるんでしょうね?でも、学校に行く子供がいる家庭は後半になるのかな。我々、ジージ、バーバは孫が来てくれるのは嬉しいが帰省したら接待で忙しく過ごす事になります。帰った後は若い時と違いグッタリになってしまう。もっと元気でありたいですね、若くないんだから無理だけれどもっと元気な年寄りでいたいものです。私の場合、この間来てくれているので今年のゴールデンウィークは来ない。一寸寂しい気もするけれどノンビリ過ごす予定です。今年のゴールデンウィーク、何処へ行っても混んでいる事でしょう。若いパパさん、ママさん、頑張ってね、帰省で孫とお出掛けするジージとバーバの皆さんも疲れが出ない程度に頑張って下さい。私たちは何時でも動ける身なので自宅で家族と一緒に体を休める日にします。一寸寂しい話ですが仕方ない。とほほ。。。です。

2025.04.22(曇り)火曜日

025きママな日記111

今日は午前中に来客があるのでバタバタと忙しい。主人も私も病気をしていますので友人は勿論ですが健康増進課のスタッフも体の事を心配して下さいます。そうなんですよ、市から担当者がお見えになって体調の事をお話しする日なのです。

身体の事をお話して終了です。緊張するほどの事ではありませんが、気が小さいのでやっぱり緊張しました。終わるとホッとしますね、緊張がほどけてお昼の準備、簡単なものでお昼を食べ終わったら何だか疲れがドッと出てきたので体を休めます。こんなことでも疲れちゃうのだから困ったものです。さて、気分転換に買い物へ行きましょう。色んな品を見て過ごしていると不思議に落ち着いて来るんです。

2025.04.21(晴れ)月曜日

025きママな日記110

今日は一日曇りなのかな?

「気まぐれ昔話」病気なると昔の事を思い出します。話は子供頃の話や思春期、独身時代、結婚(神奈川県→東京都→山梨県)してからの生活等々。私の実家は神奈川県の藤沢市内です。藤沢は町ですが私が住んでいたのは山の方になります。有名な江の島には自分の自転車で行ったことがあります。エネルギー余る子供だったから自転車に乗って行かれたんでしょうね、手作り和菓子を売っていましたがお店には駄菓子も売っていたんです。父が仕入れに行っていたのはお菓子を売っている卸問屋でした。「藤沢本町に(小田急電鉄の藤沢駅の手前駅)駄菓子屋の卸問屋」がありました。仕事が忙しくて父が仕入れに行かれない時は私が行くこともあったのです。私が運転免許を取得する前は自転車が交通手段でした。問屋さんまで父の代行で自転車を走らせ買い出しに行ったことも。毎年行事の大学生箱根駅伝コースの一部を自転車で走ったことがあります。

昔の事ですが、「江の島」の漁師さんが自転車を漕いで私の住んでいた場所まで来てくれていました。魚は江の島の海岸でその日の朝、網で獲った魚を運んで来てくれたのです。今の江の島は昔とは違う。昔は江の島へは有料の橋を渡らないと行かれなかったんです。車では行かれない場所だったから海は今よりずっと綺麗でした。開拓するっていい事もあるけれど良くないこともありますね。島も昭和39年の東京オリンピック開発して変わってしまった。江の島の裏側、岩場で泳いでいると魚が見えました。直ぐそばまで魚が泳いできた。素潜りの出来る友人がウニを潜って獲ってきてくれてナイフで殻を割り、美味しいウニを食べさせてくれました。「美味しかったなぁ~。」あの味は今でも忘れない。「本当に美味しかった!」それこそ70年くら前の話、漁師さんが自転車で魚の行商に来てくれていたんですよ、朝獲った新鮮な魚を食べさせてもらいました。私の母も魚料理が上手でした。鰯(いわし)は包丁でなく手開きと言う方法がある。指先を器用に使って鰯をさばく。「てびらき」と言うらしい。身が柔らかい鰯は包丁より手びらきの方が魚が痛まないのです。母が手びらきで鰯の刺身を作ってくれた。刺身になった鰯(いわし)を差し出して「さぁ~、食べなさい、美味しいから。」私は恐る恐る食べる。鰯を醤油だけでもいいし、生姜をすって生姜醤油で頂くのも上手い。「本当に新鮮で美味しかった!」何回もお代わりを頼んだ。「たべたい、もう一回、もう一回」と、母にねだって食べさせてもらいました。自分で江の島まで行った時、普通の自転車だったし、原動機自転車でもないし、エンジンが付いていないから自宅から藤沢本町まで何時間かかったのか覚えていません。お大汗をかいたこと、江の島までは遠かった。小田急線は、「新宿→町田→厚木→箱根方面」と「新宿→町田→藤沢→江の島方面」を走っています。

話が飛びます。先日の続きです。22歳の時、(神奈川県七沢温泉リハビリセンター)母の付き添いから解放され、東京へ出て働き始めた。義兄の紹介で最初に入った商社は2か月半で倒産、失業保険は出なかった。在社期間が3か月経っていなかったので保険対象にならなかったのです。直ぐに新しい会社を紹介して頂き働き始めた。実家の手伝いを断り、我が儘を言って東京の会社に勤めたから実家に愚痴は言えない。東京でもよく働きましたよ、会社の上司にも認めて貰って順調でした。実家(神奈川県)から独立し一人生活し始めた頃、杉並の阿佐ヶ谷から四ツ谷の商社まで列車で通った。(今は四ツ谷から地下鉄が走っているらしいが昔は四ツ谷駅から東条会館まで約20分歩いた。)月曜日から金曜日まで会社で働き、平日の夜は友達と食事会などして楽しんだ。でも週末だけは実家のお手伝いへ行って日曜日にはアパートに戻る。母の元気な顔を見て帰るのが楽しみでした。一人生活は約2年半くらいだったでしょうか?主人とは職場で知り合ったわけではないが、キャリアウーマンとして働くつもりでいたが断念!東京生活も約2年でピリオド、23歳の時に寿退社。東京の新宿区?河北町1LDKのアパートでスタートを切った。一階は大家さんが住んでいて島袋さん(沖縄出身とお聞きしている)と言う名前の大家さんでした。その頃、近くに東京女子大学病院(移転)やフジテレビがあってタレントさんとバッタリ道で会うことも。フジテレビ(移転)が全盛期だったころだと思います。冠番組の一つ、「夜のヒットスタジオ」を放送していた頃です。ボーリングが人気で並ぶほど混んでいた頃、夜間は並ぶことなく空いていたので若い二人はボーリングをして遊び、タクシーが捕まらない時はアパートまで歩いて帰った思い出が有る。近くには主人の親友夫婦が住んでいて色んな相談に乗ってくれました。

アパートは風呂が無かったので銭湯へ二人で通っていました。結婚したのは昭和48年でした。(神田川の歌を知っているだろうか?)「「神田川」(かんだがわ)は、かぐや姫(当時のグループ名は「南こうせつとかぐや姫」)が歌った日本のフォークソング。1973年(昭和48年)9月20日にシングルレコードが発売」

男子浴槽から主人と親友の声がするので私は友人の奥さんを探したが見つからず、外に出た時に大笑い。このアパートの家賃は25.000円、車をかって生活しようと思ったら駐車場代がアパート代と同じ25.000円で敷金、礼金、前家賃が必要との事。若い二人には無理な話で彼の実家近くへお引越し。京王井の頭線・浜田山駅の借家では庭をつぶして駐車場にしていいとの事。主人が25歳の時に自分で商売を始めた。彼の実家では祖父母が孫と一緒に生活していました。祖父は昔、宮大工だったそうです。古い二階家の建物に住んでいました。その時義妹が二階に住んでいたと思います。昔の職人は物を大切します。現役で無くなっても道具を大切にする祖父でした。家を壊すときに屋根裏から「沢山の手作り塵取り」が出てきて杉並区の保育園や幼稚園に寄付したほどです。古い家を壊した時出る廃材を使い勝手の良い塵取りを暇に任せて作っていたのでしょう。私も使っていました使いやすい塵取りでしたよ。屋根裏に幾つあったのかな?祖父は、古物商の免許を持っていたので骨とう品も沢山有り、部屋中に骨とう品が山のようにありました。祖父とは50歳年が離れていました。祖母は45歳離れていたと思います。一番、私がビックリしたのは、なんと霧タンスの中身が服ではなくカンナ、ノコギリ、ノミ、大工道具が沢山入っていたんです。大工さんだったからでしょうか、生活はガスではなく薪だったので風呂も台所も薪生活。時々、祖母が寝込むと実家に呼ばれました。そうすると私は炭で料理する事になってしまう。手は真っ黒になります。手袋しての作業は面倒です。結婚して3年目には祖父が病気(食道がん)になり家をリフォームして同居、ガス生活が始まりました。お医者さんへの送迎は私の仕事となりました。痛むときは夜中でも起こされます。母の次は祖父の看護をすることになり、そして5年後には祖母もね。続きは又、次回は何時になるか分かりませんが気が向いたら走り書きします。

2025.04.20(曇り)日曜日

025きママな日記109

ブログで北杜市は肌寒いとずっと書いていましたが、過ごしやすい日が続き、寒いと言わなくても良くなりました。2025年の春が来たと言えます。昨日はいい意味での気分転換が出来て気持ちが切り替わりました。これからは明るく元気に過ごして行くつもりです。「毎日、すべての人、動物、植物など自分と関わる全てに感謝をして過ごす」


パジャマの膝がすれて薄くなり始めている。学校に通っているとき、家庭科が苦手だった私。家庭科の宿題が出ると姉に頼んで仕上げをしてもらった。末っ子の私は何時も命令ばかりされて育っていたが良い事もあったのです。姉妹喧嘩は歳が離れているので余りしませんでしたね、何しろ働き者の4人の姉が居るので「あれしなさい、これをやっておきなさい、口うるさい姉にうんざり!遊びたい盛りの私は怒られることが多かったかも?」4人のうち、三番目の姉が一番怖かったですね、一番上の姉は私と歳が12歳近く違う。私が中学1年生の時にお嫁に行ってしまったので性格は良く知らない。でも、姉に子供が生まれてから変わった。甥っ子が可愛くて私は子供が大好きだったので姉の嫁ぎ先へ自転車で遊びに良く行きましたね、親が忙しい時にはお子守をしていました。遊んであげたから懐いていたんでしょうね?私が結婚してからも「ふーちゃんおばちゃん、お家に行ってもいい?」二人の甥っ子を車で連れ帰り、東京見物(列車博物館などなど)に連れて行きました。叔母と甥っ子の関係は長く続きましたよ。色々と思い出しました。姉4人とも働き者でいい人なんですが、手八丁口八丁で元気なんです。末っ子の私は何時も命令されてばかりでした。それでも優しいところもあって頼りにしていたかも知れません。二番目の姉には子供時から可愛がってもらいました。昔から優しかったですよ、家庭科の宿題は沢山助けて貰いました。先生は完成品を見て笑っていたでしょうね?4人の姉も今は生きているのは1人だけ、6人姉妹(姉4人、兄1人)で直ぐ上の兄(2歳違い)も亡くなってしまったので今では2人姉妹(9歳離れた姉妹)になってしまいました。寂しい事ですが仕方がないと二人で励ましあっています。父は腕のいい和菓子職人、毎日忙しく働いていました。母も働き者でしたね、昼間は和菓子を作り夜は居酒屋さんみたいな感じになる。何しろ父がお酒好きで飲んべえさんが集まってくる家でした。母もよく働いていた気がします。両親が働いていたので当然子供も手伝いをさせられます。みんな一緒にご飯を食べる習慣はなかったです。店番をしながら宿題をしていました。家族旅行は???

私が結婚して母親となって裁縫をしなくてはならない時もあります。苦手なのは苦手ですが、私なりに頑張りました。姉達から「それは当たり前でしょう!」って言われそうですね。裁縫が得意な一番上の姉から私にミシンを頂戴って言われたことがあります。私の母は娘が出来るとミシンをプレゼントしてくれたのです。昔の話ですから「自動ミシン」では無くて「手動足踏みミシン」でした。自分で早さを調整できるので手作りの縫物をする人にとって使い勝手が良いとの事です。今は私も自動ミシンを使っていますが、滅多に動かさないので埃をかぶっている状態です。(苦笑) 裁縫が苦手の方に朗報→(便利グッズを売っているんですよ、写真があるので載せておきます。) お裁縫コーナーへ行ってみて下さい。楽しい商品が並んでいます。今では便利な商品があって裁縫が苦手な私でも上手に直せます。有難いですね、不器用な私にとって便利なアイテムが増え感謝です。

2025.04.19(曇り)土曜日

025きママな日記108

朝が肌寒いのは北杜市だからでしょうね?気温も以前とは違ってきている。待ち遠しかった春が今年も来ている。でも、四季が滅茶苦茶です。一日の気温差があり過ぎます。暑すぎたり寒すぎたり、春と秋が短くなって冬と夏が長くなっている気がします。私の体調が悪いので季節の感覚が鈍感になっているのかな?今は曇っている空も晴れて来ることでしょう。今日は楽しみにしている事があります。それは後で書き加えます。運転が好きな私ですが、今日は主人が運転してくれるそうです。ワクワクドキドキしながら朝の支度をしています。主人がコーヒーを淹れてくれています。何時もの事が何だか特別の日のように気持ちが高ぶっている。子供のようにね、笑ってしまう自分、ニヤッと笑っている自分を想像したら気持ち悪いです。(苦笑) 勝手な事ばかり言ってスミマセン。今年も春を迎える事が出来ました。来年は分かりません。毎日を明るく精いっぱい生きよう。


マフィンを焼いたよ、焼き過ぎだったかな?箱に入れてお出掛けです。


今日は楽しみにしていたお喋り会です。お昼も一緒に楽しみます。


みんなで頂くと何と美味しいこと、心まで満腹になりました。「ご馳走様でした。」

2025.04.18(曇り~晴れ?)金曜日

025きママな日記107

今日の朝は寒く感じました。放射冷却のせいかな?ウグイスが鳴いています。朝の目覚めがウグイスの声とはなんて素敵ですね。今日の午前中は主人がPC教室があり、お昼頃まで出掛けて居ます。お昼の用意して待っていることに。

下の植物、何の蕾だろうか?蕾の数は20個ほどありましたよ。


昨年のブログを見たところ4月中旬(2024.04.25)にボタンの花が満開になっていたとの事。

何と気温がどんどん上がって東京は夏日になったそうです。北杜市内も25度くらいまでいったそうです。庭に出てみたらボタンの蕾が大きくなっているではないですか、私が風邪を引き室内でくすぶっている内に春を通り越して夏日になっていたとは驚きです。

2025.04.17(曇り時々晴れ)木曜日

025きママな日記106

朝は肌寒かったけれど随分暖かくなって身体が喜んでいます。風邪気味だった体調も回復してきたようです。それでも頭がまだまだボーーッとしています。ご近所の花が散り始めました。散った花びらも綺麗です。

 
長かった体の不調も少し良くなってきた感じです。もう少し頑張ります。大変ご心配をお掛けしました。

2025.04.16(晴れ)水曜日

025きママな日記105


昨夜未明から降り出した雨、朝は肌寒いです。姉から春のプレゼントが届いた。採りたてのタケノコです。毎年送ってくれますが歳を取って体調が良くなかったので今年はダメだろうと諦めていました。鮮度が大事な食べ物ですから美味しく調理してから頂きましょう。

2025.04.15(雨のち曇り)火曜日

025きママな日記104

昨日は一日中雨が降っており、今日の朝は肌寒かったです。満開だった桜も葉桜になってしまったのだろうか?今日は家族が病院通院日なので私はお留守番、実は我が家から歩いて行かれる桜の名所があります。まだ体調がイマイチだったので車で桜の開花状態を観に行った。何と満開、見頃だった。


昨日は今年は見に行かれないと思ったけれど満開の桜を堪能、嬉しかったです。この池からは八ヶ岳は勿論のこと、南アルプス連山(鳳凰三山ほか)北岳や富士山など見えますよ。


この溜池は「牛池」と言う。富士山の写真を撮るとき鉄塔が邪魔って思ってしまう。

 
時々ハラハラと桜吹雪が!?

2025.04.14(晴れ~雨)月曜日

025きママな日記103

雨が降っていますので肌寒いです。昨日から大阪万博が開催され始めています。大阪万博は55年前に行われた。実は万博に行っておりません。母が55歳の時に脳溢血で倒れかなり危なかったらしい。倒れてから2か月くらいは自宅でしたが、その後掛かり付け医の紹介で厚木駅から山方面へ走って行くと「七沢温泉」がある。田舎の温泉地なので飲食店は、蕎麦屋と中華屋さんの2軒だけだったかな?母は寝たきり状態からリハビリ七沢温泉病院へ入院する事が出来ました。病院で言われたことがあります。人手不足なため、看護婦さんだけでは患者さんを見切れないということで家政婦を雇うか、家族が付き添わなくてはなりませんでした。姉たちは子供が小さく育てている最中だったので白羽の矢が私に!20歳の私は会社を辞めて1年以上介護、その後は右半身不随になってしまったため、左手を右手と同じように使いこなすまでリハビリです。左手で字を書き、自分一人でご飯を食べ、お風呂や病院生活出来るようになるまで頑張りました。その後は実家でも母一人でリハビリを続けて貰いました。私は母が寂しがるのでお見舞いには時々行きましたよ、病院生活も実家へも逢いに行きました。母にも頑張ってもらいました。私はリハビリ病院で母の看護の為、母のベットの下に入る小さなベットで寝ていました。家政婦さんたちは患者さんと寝泊まりする方も居れば家政婦ルームで寝る人も居ました。休憩室で寝る事が出来る付き添いは、病気が軽い患者さんだったようです。私は母が寂しがるので母のベット下にある小さなベットで寝泊まりです。大部屋、同室、他の患者さんと一緒に泊まり込みで母の介護をしていました。私の青春の一時期は介護でしたね、病気の母を置いて遊びに行くわけにもいかず1年半くらい病院の中でした。温泉地だったけれど田舎でした。大阪万博には行かれませんでした。。同級生が不憫に思ってくれたのか病院の許可を得て接待室を貸して頂き、ミニ同窓会を開催してくれた思い出が有ります。嬉しかったし、有難かったです。お役御免になった私は22歳の時、実家から東京に出て独り立ちすることに。。。

先程から花火が鳴っています。近くで桜祭りでも行っているのでしょうか?我が家から5分圏内に農業用水の「ため池」があります。桜の名所ともなっており、毎年お花見をしていましたが今年は無理のようです。昨年、満開の桜を撮影してあったので画像を見て我慢することにします。


2024.04.14撮影(池の周りをグルっと一回り)
池の周りをぐるっと回るだけでも気持ちいいです。今年は葉桜になっているかも?
八ヶ岳、富士山、鳳凰三山が綺麗に見えると嬉しかったですね。

2025.04.13(雨)日曜日