今日は一日曇りなのかな?
「気まぐれ昔話」病気なると昔の事を思い出します。話は子供頃の話や思春期、独身時代、結婚(神奈川県→東京都→山梨県)してからの生活等々。私の実家は神奈川県の藤沢市内です。藤沢は町ですが私が住んでいたのは山の方になります。有名な江の島には自分の自転車で行ったことがあります。エネルギー余る子供だったから自転車に乗って行かれたんでしょうね、手作り和菓子を売っていましたがお店には駄菓子も売っていたんです。父が仕入れに行っていたのはお菓子を売っている卸問屋でした。「藤沢本町に(小田急電鉄の藤沢駅の手前駅)駄菓子屋の卸問屋」がありました。仕事が忙しくて父が仕入れに行かれない時は私が行くこともあったのです。私が運転免許を取得する前は自転車が交通手段でした。問屋さんまで父の代行で自転車を走らせ買い出しに行ったことも。毎年行事の大学生箱根駅伝コースの一部を自転車で走ったことがあります。
昔の事ですが、「江の島」の漁師さんが自転車を漕いで私の住んでいた場所まで来てくれていました。魚は江の島の海岸でその日の朝獲った魚を運んで来てくれたのです。今の江の島は昔とは違う。昔は江の島へは有料の橋を渡らないと行かれなかったんです。車では行かれない場所だったから海は今よりずっと綺麗でした。開拓するっていい事もあるけれど良くなこともありますね。島も昭和39年の東京オリンピックで開拓して変わってしまった。岩場で泳いでいると魚が見えました。直ぐそばまで魚が泳いできた。素潜りの出来る友人がウニを潜って獲ってきてくれてナイフで殻を割り、美味しいウニを食べさせてくれました。「美味しかったなぁ~。」あの味は今でも忘れない。それこそ70年前の話、漁師さんが市内に自転車で魚の行商に来ていたんですよ、朝獲った新鮮な魚を食べさせてもらいました。「本当に美味しかった!」自分で江の島まで行った時、普通の自転車だったし、原動機自転車でもなし、エンジン付いていないから自宅から藤沢本町まで何位時間かかったのか覚えていません。お大汗をかいたこと、江の島までは遠かった。小田急線は、「新宿→町田→厚木→箱根方面・新宿→町田→藤沢→江の島方面」
昨日の続きです。22歳の時、(神奈川県七沢温泉リハビリセンター)母の付き添いから解放され、東京へ出て働き始めた。義兄の紹介で最初に入った商社は2か月半で倒産、失業保険は出なかった。在社期間が3か月経っていなかったので保険対象にならなかったのです。直ぐに新しい会社を紹介して頂き働き始めた。実家の手伝いを断り、我が儘を言って東京の会社に勤めたから実家に愚痴は言えない。東京でもよく働きましたよ、会社の上司にも認めて貰って順調でした。実家(神奈川県)から独立し一人生活し始めた頃、杉並の阿佐ヶ谷から四ツ谷の商社まで列車で通った。(今は四ツ谷から地下鉄が走っているらしいが昔は四ツ谷駅から東条会館まで約20分歩いた。)月曜日から金曜日まで会社で働き、平日の夜は友達と食事会などして楽しんだ。でも週末だけは実家のお手伝いへ行って日曜日にはアパートに戻る。母の元気な顔を見て帰るのが楽しみでした。一人生活は約2年半くらいだったでしょうか?主人とは職場で知り合ったわけではないが、キャリアウーマンとして働くつもりでいたが断念!東京生活も約2年でピリオド、23歳の時に寿退社。東京の新宿区?河北町1LDKのアパートでスタートを切った。一階は大家さんが済んでいて島袋さん(沖縄出身とお聞きしている)と言う名前の大家さんでした。その頃、近くに東京女子大学病院(移転)やフジテレビがあってタレントさんとバッタリ道で会うことも。フジテレビ(移転)が全盛期だったころだと思います。看板組の一つ、「夜のヒットスタジオ」を放送していた頃です。ボーリングが人気で並ぶほど混んでいた頃、夜間は並ぶことなく空いていたので若い二人はボーリングをして遊び、タクシーが捕まらない時はアパートまで歩いて帰った思い出が有る。近くには主人の親友夫婦が住んでいて色んな相談に乗ってくれました。
アパートは風呂が無かったので銭湯へ二人で通っていました。結婚したのは昭和48年でした。(神田川の歌を知っているだろうか?)「「神田川」(かんだがわ)は、かぐや姫(当時のグループ名は「南こうせつとかぐや姫」)が歌った日本のフォークソング。1973年(昭和48年)9月20日にシングルレコードが発売」
男子浴槽から主人と親友の声がするので私は友人の奥さんを探したが見つからず、外に出た時に大笑い。このアパートとの家賃は25.000円、車をかって生活しようと思ったら駐車場代がアパート代と同じ25.000円で敷金、礼金、前家賃が必要との事。若い二人には無理な話で彼の実家近くへお引越し。京王井の頭線・浜田山駅の借家では庭をつぶして駐車場にしていいとの事。主人が25歳の時に自分で商売を始めた。彼の実家では祖父母が孫と一緒に生活していました。祖父は昔、宮大工だったそうです。古い二階家の建物に住んでいました。その時義妹が二階に住んでいたと思います。昔の職人は物を大切します。現役で無くなっても道具を大切にする祖父でした。家を壊すときに屋根裏から「沢山の手作り塵取り」が出てきて杉並区の保育園や幼稚園に寄付したほどです。古い家を壊した時出る廃材を使い勝手の良い塵取りを暇に任せて作っていたのでしょう。私も使っていました使いやすい塵取りでしたよ。屋根裏に幾つあったのかな?祖父は、古物商の免許を持っていたので骨とう品も沢山有り、部屋中に骨とう品が山のようにありました。祖父とは50歳年が離れていました。祖母は45歳離れていたと思います。一番、私がビックリしたのは、なんと霧タンスの中身が服ではなくカンナ、ノコギリ、ノミ、大工道具が沢山入っていたんです。大工さんだったからでしょうか、生活はガスではなく薪だったので風呂も台所も薪生活。時々、祖母が寝込むと実家に呼ばれました。そうすると私は炭で料理する事になってしまう。手は真っ黒になります。手袋しての作業は面倒です。結婚して3年目には祖父が病気(食道がん)になり家をリフォームして同居、ガス生活が始まりました。お医者さんへの送迎は私の仕事となりました。痛むときは夜中でも起こされます。母の次は祖父の看護をすることになり、そして5年後には祖母もね。続きは又、次回は何時になるか分かりませんが気が向いたら走り書きします。
2025.04.20(曇り)日曜日