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蔦木宿を歩き、国道20号線を少し歩きます。 |
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東京から176キロです。ずいぶん歩いてきましたね。この先、左折して農道を歩きます。 |
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国道20号線に眼をやると、古い民家の左に平岡一里塚が見えます。一里塚には、「日本橋から46里」と記されています。 |
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明治天皇巡行御野立所…明治13年6月、山梨・長野・三重・京都などの府県の民情視察の為、明治天皇の巡幸が行われた。巡行の行列は、6月23日の朝、台ヶ原(白州町)を出発し、国界橋を経て当地に入った。午前10時に蔦木本陣に到着、しばし休息ののち平岡の御野立所に向かった。当日、沿道の家々では日の丸を掲げ、小学校児童を始め近郊近在の拝観者が沿道に連なって御巡幸を迎えた。行列は,400人余り及ぶ数であった。御野立所の位置は、あらかじめ宮内省より街道筋の柳の大樹のある草地を指定されていた。地元ではそこに白砂を盛って菊家紋のついた紫の幔幕を張り巡らし、白木の机と椅子を備えて玉座とした。すべて村人の奉仕によるもので、御巡幸を迎えるにあたっての苦労はなみなみならぬものがあった。この日、天皇は金色燦然たる大元帥の礼服を着用され、御手ずから小さな箱を携えられて玉座につかれたそうである。そしてここまでは2頭立ての馬車で来られたが、行き先の瀬沢坂・とちの木坂が難路のため、4人担ぎの板輿にお乗り換えになった。それから巡行の行列は徒歩で次の休息地の原の茶屋へ向かって出発したが、玉座跡の白砂は人々がお守りに持ち帰ったという。この巡行の直後、地元では御野立の栄誉を記念として残そうと、平岡村が中心となって御座所の位置に鸞躅碑(らんたくひ)をつく左右にも行幸を讃える歌碑を建てた。その後、明治17年の釜無川の氾濫によって3基の石碑は流失し、村中総掛かりでやっと探し出したが、台石はついに発見できなかったという。碑はいったん村中へ建てておいたが昭和9年に再び現在地に復元した。(富士見教育委員会)
この先に机の信号があります。その信号を右折して瀬沢信号に向かいます。
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机の信号から瀬沢信号の間に「奇石かぐら石」があるとのこと。車で下見をしたときに見つかりませんでしたので地元の方にお聞きしました。一本下に道があるのですが、そこの岩場にありました。明治天皇もご覧になったようです。字の薄くなった看板がありました。本当はこの道が旧道なのかも知れませんね?この場所は地元の方にお聞きしないと見つけられないことでしょう。本番では寄らないことにしました。 |
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瀬沢信号の横断歩道を二回渡ります。直進してから左折、橋を渡り終えたら左折です。信号、歩道がありますので安全に歩けます。 |
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瀬沢集落も昔懐かしい家並みが点在している集落です。吉見屋さんのお隣は諏訪神社です。 |
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手にしているのは参考資料にしている「パパな歩く甲州街道」の蔦木宿〜金沢宿までのガイドが書いてあるコピーです。後ろの山は八ヶ岳、国道20号線が見えますか?八ヶ岳の下に白いガードレールが道です。八ヶ岳の丁度下あたりでしょうか?国道脇になりますが、瀬沢の古戦場跡の碑があります。(天文11年2月、北から信玄を攻めようとした小笠原・諏訪・木曽・村上の4将は、動きを察知した信玄に奇襲され敗走しました。) |
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八ヶ岳の雄姿が見えて気分は最高です。 |
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富士見公園に到着です。(明治44年、アララギ派の歌人伊藤左千夫、島木赤彦がこの辺りの風景に感激して公園を造った。白樺派の作家達の記念碑があります。) |
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お昼をここ、富士見公園で考えていましたが、時間が遅くなってしまうため手前で食べることにしました。お昼は、きちんとした場所で頂きたいです。おト○レも当然必要です。このコースにはト○レが少ないのが悩みだったのです。公共の施設ではありませんが交渉してお借りできることになりました。 |
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原の茶屋跡です。ここにも昔懐かしい家並みが残っています。(とちの木村と御射山神戸(みさやまごうど)村の間は距離が長く人家も無く、旅をするのに不便であったため、明和9年(1772)頃に松目新田の(名取)与兵衛が向原に出て茶屋を始めた。その後ここを中心にして次第に人家が増えて周囲の村と紛争が起きたので高島藩が40間四方の築地を築かせその中で茶屋を営ませた。現在、集落の出口辺りに古い家が2軒向かい合って建っている。屋根には珍しいスズメオドリ(屋根の棟飾りの一種)を見ることが出来ます。集落の外れには、ほんの少しですが旧甲州街道の道が残っていますよ。
原の茶屋跡から少しあるいた場所に「カゴメ富士見工場」があります。春には桜が咲いて見事だそうです。本番の時にはお花見ウォークになりそうです。とても楽しみです。 |
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里山歩きは、こんな素敵な風景を見ながら歩けるので大好きです。 |