イラスト 「八ヶ岳歩こう会」「八ヶ岳自然クラブ」のメンバーです。
タイトル
八ヶ岳歩こう会 我が町シリーズ(竜王町)・信玄堤 2003年3月20日その1
釜無川・信玄堤・八ヶ岳 釜無川・信玄堤・南アルプス
橋の下には、馬上の武田信玄・信玄堤をつくっている様子が描かれています。
今から450年前の戦国時代、武田信玄公は、甲府盆地を釜無川や御勅使川の洪水から守るため治水工事を行いました。これらの工事は20年の歳月がかかったと言われ、現在の信玄堤は昔の思想を受けついで霞堤として改修されています。信玄堤にはケヤキ、エノキ等の樹木があり、水害防備林として指定されているそうです。
●甲府盆地を洪水から守る信玄堤
甲府盆地には東から笛吹川、西から釜無川、御勅使川が流れています。どちらの川も暴れ川です。東の暴れ川、笛吹川を押さえるのが「万力林」。そして西の暴れ川、釜無川・御勅使川を押さえるのがこの「信玄堤」です。
●信玄堤のはたらき
「信玄堤」は戦国時代に武田信玄の命によってつくられたと言われています。信玄堤は、この付近の堤防の名前ですが、この堤防だけでは釜無川や御勅使川の洪水を防ぐことは出来ません。いろいろな施設によって洪水の流れを調整しています。特に御勅使川の洪水の流れをたくみにコントロールしていることが大きな特徴です。
・御勅使川の流れを上流の「石積み出し」で北側にはねます。
・このはねた流れを二つの「将棋頭」で受け止めます。
・次に河岸段丘を切り開いた「堀切」で勅使川の洪水の流れを「高岩」へ導き、その勢いを弱めています。
・弱まった流れをこの「信玄堤」がしっかり受け止めているのです。

ドラゴンバークから歩き始め、史跡を巡り信玄堤まで行ってきました。
このコースを考えて下さったのは「梅の町ウォーキング」でお世話になったSさん(女性)です。昨年好評で恒例になったウォーキングコースだそうです。今年の下見にはSさんのガイドでウォーキングしたそうですが本日は都合が悪くなり、右の男性お二人が案内をして下さいました。
慈照寺 
有富山「慈照寺」は曹洞宗(弾宗)の別格地で24ヶ寺の本寺である。古くは真言の寺院であったが、室町時代の延徳元年(1489年)8月開祖真翁宗見弾師によって弾寺に改め開創した。開基は諸角豊後守昌清公で、永禄4年9月信州川中島に戦死し、その古牌を祀ってある。本尊は華厳釈迦如来で、鎌倉末期湛慶の作といわれ、両脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩。富士の霊峰と相対し眺望が極めて良い境内には、法堂、庫院、書院、衆寮、開山堂、山門など十数棟の伽籃が完備している。また、創建当初から武田氏との関係が深く、多くの重要古文書を保存している。

山門・法堂・慈照寺文書(山梨県指定有形文化財)
梵鐘・大涅槃図(竜王町指定文化財)
山県神社にて小休止。

際神 山県大弐先生
宝物 真筆著書等(県重要文化財)

山県大弐生誕の地
山県大弐は、江戸時代中期の有名な儒学者、兵学者で武田二十四将の一人である山県三郎右衛尉昌景の子孫で郡代を務めていた山県領蔵の次男として、亨保10年(1725)この地に生まれました。彼は、儒学、天文地理、兵学、医学などを学び、江戸に出て医師のかたわら塾を開いて民衆に学問を教授しました。その時代は、専制を欲しいままにしていた徳川幕府の最盛期で政治は民衆に帰すべきであると倒幕論を主張したため、明和4年(1767)43歳のとき捕らえられ処刑されました。これが有名な明和事件です。この思想は、著書である「柳子新論」に記され、明治維新に少なからず影響を与えたようです。

碑文に「士農工商は身分・階級にあらず、ただその役割を示すのみ」。
歴史を勉強をしながらのウォーキング、それにしてもこの景色を見ながらウォーキングが出来るのですから幸せです。同じ趣味を持つお仲間とおしゃべりも楽しいウォーキング、信玄堤のウォークは、まだ続きが有ります。
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