イラスト 「八ヶ岳歩こう会」「八ヶ岳自然クラブ」のメンバーです。
タイトル
2000年12月10日「浅川兄弟をめぐるウォーク」・その1
皆さんは浅川兄弟の名前をご存じでしょうか?日本人よりも、韓国で多くの業績を残したので韓国人の皆さんの方が知っているのかも知れませんね。今回ウォークに参加して私も初めてお名前を知りました。浅川兄弟は山梨県北巨摩郡甲村(現高根町)五町田が生誕の地です。81歳まで時代の波をくぐり抜けながら日本と韓国を行き来して、朝鮮古陶磁の研究に生涯を捧げた兄・伯教(明治17年8月4日誕生〜昭和39年1月14日死去)と朝鮮の山野の緑化に尽力するかたわら、「朝鮮の膳」「朝鮮磁名考」の名著を残し、志半ば40歳の若さで韓国の地で亡くなった弟・巧(明治24年1月15日誕生〜昭和6年4月2日死去)。お二人とも甲府メソジスト教会に通ったクリスチャンです。お二人の生誕の地を歩きました。

集合場所の高根クラインガルテンです。
本日の案内をして下さるのは「八ヶ岳歩こう会」の平井さん(写真)です。よろしくお願いします♪

はい、それではいつものように準備体操を始めます。
皆さん、ずいぶん体が柔らかいですね〜。これって、結構きついウォーミングアップなんですよ!スポーツをする前後には体操が必要です。
体操をしないと後で一番つらいのは自分です。

畑の道を歩き出しました。
お天気が今ひとつなので八ヶ岳の雄姿が拝めません、皆さんに想像していただきましょう。
今日は歩くペースが速いですよ。

おどけてみせる「なおさん」、でも顔が隠れてしまいましたね!
シャッターチャンスになりませんでしたが・・・、私へのサービス精神に感謝してUPです。

「え〜〜何だ〜、変なところを写して〜」ではないのです。ここには以前、浅川兄弟のお家が建っていた所なんです。今は町の所有地になっているとか・・。このままでは無いと思いますが、いずれかは何かが記念として建つのでしょうか?

浅川兄弟のお家があったとされる場所から記念碑のある場所へ歩いていきます。

これがその記念碑です。
高根町は平成3年3月に、記念碑「浅川伯教・巧兄弟生誕の地」の記念碑を建立した。五町田農村公園の入り口にあり、生家の北側に位置する。これを機に、多くの町民が、浅川兄弟の存在を知るようになった。
浅川伯教たちが韓国に渡ったのは大正2年(1913年)の事、今からほぼ一世紀近くも昔の話です。記念碑は浅川兄弟を偲ぶよすがになっています。

余談ですが・・、手前に一本の曲がった棒を持った人にお気付きでしょうか?
棒の左側は歩こう会の男性です。右の、棒を持っている女性は今回初めて参加された方です。メンバーの○○さんが、歩くスピードに着いていくのが大変なこの女性のために考え出したリード棒です。一寸した心配りに嬉しくなって写真に納めました。心優しい○○さんに拍手!この女性は「又参加したい」と言ってくれました、甲府から参加した方です。

お忙しいところ私達のために説明に来てくださった「浅川伯教・巧兄弟を偲ぶ会」の方で清水さんです。30分ほどでしたが熱のこもった説明にみんな聞き入っていました。

ここには浅川兄弟のご先祖様のお墓があり、それぞれの説明をしているところです。
清水さんから浅川兄弟に関する資料を頂きました、この資料を参考にして今回は書かせて貰いました。
「浅川伯教・巧兄弟を偲ぶ会」事務局・高根町役場企画財政課

立派な墓誌がたてられていました。
浅川伯教(のりたか)
朝鮮古陶磁の神様、朝鮮の陶磁器に魅せられ、その美の研究を重ね、世界に紹介した功労者。
浅川巧(たくみ)
環境保全と国際親善の先駆者

浅川家のお墓にはクリスチャンとして「†」が刻まれていました。浅川兄弟の両親は子供のいない浅川家に2人養子(夫婦で養子)となった。

2人の父親のお墓です。(父 如策31歳)
浅川伯教7歳、巧は母親のお腹の仲でまだ生まれていない。(母親のけいは八ヶ岳神社の神官で、医師でもあった千野真道の娘だった。真道は短歌を詠み、生け花をし、茶道もたしなむ風流人で、おまけに野山を散策するのが好きで植物にも関心が深かった。如策と、けいが結ばれたのは如策の父親小尾伝右衛門と、けいの父親の真藤が歌仲間であったからと言われている。)

早くに父を亡くした浅川一家はその後どうやって生計を立てていったのだろう。如策の父である小尾伝右衛門が孫の2人の面倒を見たのでしょう。母親のけいも一生懸命に生活をやりくりして子供を育てたと思います。

祖父・小尾四友の句碑
昭和3年5月、門人達が集い、四友の句碑を氏神である熱田神社境内に建立した。刻まれた句は「不断きく 声ははなれて 初鳥」
年若くして逝った父に代わって、この祖父の薫陶を受けて、兄弟は育った。

浅川兄弟のお話には育ての親ともいえる、お祖父さんの存在は外せません。浅川兄弟のお祖父さんは小尾伝右衛門(蕪庵四友/かぶらあん・しゆう/俳号)
蕪庵というのは、芭蕉の流れを汲む全国的にも名の通った流派でした。どういう訳かその流派の俳人がこの村には多くいた。四友は焼き物もしていた様子で兄弟はろくろや焼き物を日常的に目にしており、素焼きの方法や陶土のある場所なども見知っていた。そういうことが、後々の2人を朝鮮の焼き物へと導いたのではないかと思われる?兄弟は祖父の影響を深く受けていたようです。
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