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八ヶ岳歩こう会 甲州街道14  2008年12月12日作成 
八ヶ岳歩こう会10周年記念事業 甲州街道ウォーク その1
【ウォーキングコース】 信濃境駅→上蔦木信号(上蔦木公民館)→三光寺→古代米の里→真福寺→道の駅・蔦木→川除古木→岩田屋建材店→平岡一里塚→明治天皇巡行御野立所→机信号→瀬沢信号→吉見屋(諏訪神社)→しらかば園(昼食)→尾片瀬神社→とちの木防風林→塚平一里塚→透関馬頭観音像→富士見公園→原の茶屋跡→カゴメ富士見工場→石仏→神戸八幡社→神戸一里塚→青柳駅
スタートは、信濃境駅です。ゴールは、青柳駅になります。
信濃境駅(トイレ休憩)→ 上蔦木信号(蔦木宿本陣表門)→
三光寺→ 蔦木宿→
古代米の里→ 真福寺→
道の駅・蔦木(トイレ休憩)→ 川除古木
岩田屋建材店→ 平岡一里塚→
机信号→ 瀬沢信号→
吉見屋(諏訪神社)→ しらかば園(昼食)(トイレ休憩)→
尾片瀬神社→ とちの木防風林→
塚平一里塚→ 透関馬頭観音像→
富士見公園(トイレ休憩)→ 原の茶屋跡→
カゴメ富士見工場→ 石仏→
神戸八幡社→ 一里塚へ左折
神戸一里塚→ 駅に向かう陸橋→
青柳駅(トイレ休憩)
一里塚とは藩政時代、江戸日本橋を起点として三十六町を一里(4km)と定め、旅人の道標・休憩所として街道筋の一里毎に直径約10mほどの塚(小山)をつくり、塚の上には木を植えるなどして配置されたもの。今回ご案内するコースには、一里塚が3カ所有ります。大木の下に立つ「平岡の一里塚」には、「日本橋から46里」と記されている。「塚平の一里塚」では、片側の塚だけが残っています。「御射山神戸(みさやまごうど)の一里塚」には樹齢300年の見事な欅の大木があります。当時の旅人はどんな思いで歩いたのでしょう?

甲州街道は、江戸日本橋を起点とする江戸時代五街道の一つ。江戸内藤新宿から甲州石和まで表街道三八駅と甲府から下諏訪までの裏街道六駅で、下諏訪宿で中山道と合流し、全行程五三里十町余(320km)です。甲州街道は、今の国道20号線。JR中央本線・中央自動車道が併走する。甲州街道は、他の四街道に比べ当初は、道筋の整備がなされていなかったという。しかし約120年後、幕府の直轄地である甲府に甲州金の金座が置かれ、貨幣の鋳造が行われるようになると、街道は経済上、軍事上、重要な交通路となる。
蔦木宿は、甲州街道43番目の宿場町として、江戸時代に栄えたところです。
蔦木宿本陣跡碑と江戸末期建築の本陣表門
川除古木…町の天然記念物に指定されています。明治31年の洪水のときは、ここにあった大木を切り倒し水の流れを変えて蔦木宿を守ったそうです。
大木の下に立つ「平岡の一里塚」には、「日本橋から46里」と記されている。
明治天皇巡行御野立所…明治13年6月、山梨・長野・三重・京都などの府県の民情視察の為、明治天皇の巡幸が行われた。巡行の行列は、6月23日の朝、台ヶ原(白州町)を出発し、国界橋を経て当地に入った。午前10時に蔦木本陣に到着、しばし休息ののち平岡の御野立所に向かった。当日、沿道の家々では日の丸を掲げ、小学校児童を始め近郊近在の拝観者が沿道に連なって御巡幸を迎えた。行列は,400人余り及ぶ数であった。御野立所の位置は、あらかじめ宮内省より街道筋の柳の大樹のある草地を指定されていた。地元ではそこに白砂を盛って菊家紋のついた紫の幔幕を張り巡らし、白木の机と椅子を備えて玉座とした。すべて村人の奉仕によるもので、御巡幸を迎えるにあたっての苦労はなみなみならぬものがあった。この日、天皇は金色燦然たる大元帥の礼服を着用され、御手ずから小さな箱を携えられて玉座につかれたそうである。そしてここまでは2頭立ての馬車で来られたが、行き先の瀬沢坂・とちの木坂が難路のため、4人担ぎの板輿にお乗り換えになった。それから巡行の行列は徒歩で次の休息地の原の茶屋へ向かって出発したが、玉座跡の白砂は人々がお守りに持ち帰ったという。この巡行の直後、地元では御野立の栄誉を記念として残そうと、平岡村が中心となって御座所の位置に鸞躅碑(らんたくひ)をつく左右にも行幸を讃える歌碑を建てた。その後、明治17年の釜無川の氾濫によって3基の石碑は流失し、村中総掛かりでやっと探し出したが、台石はついに発見できなかったという。碑はいったん村中へ建てておいたが昭和9年に再び現在地に復元した。(富士見教育委員会)
瀬沢集落は古い家並みが残っている。
「とちの木風除林」 強風で作物が実らないため、とちの木の村が高島藩に願い出て作ったのがこの風除林で、寛政年間(1789〜1800)に植えられたもの。樹齢およそ200年のアカマツが街道の左右に49本残っている。
「塚平の一里塚」 塚平には片側の塚だけですが残っています。
「富士見公園」明治44年、アララギ派の歌人伊藤左千夫、島木赤彦がこの辺りの風景に感激して公園を造った。白樺派の作家達の記念碑がある
「原の茶屋」 とちの木村と御射山神戸(みさやまごうど)村の間は距離が長く人家も無く、旅をするのに不便であったため、明和9年(1772)頃に松目新田の(名取)与兵衛が向原に出て茶屋を始めた。その後ここを中心にして次第に人家が増えて周囲の村と紛争が起きたので高島藩が40間四方の築地を築かせその中で茶屋を営ませた。現在、集落の出口辺りに古い家が2軒向かい合って建っている。屋根には珍しいスズメオドリ(屋根の棟飾りの一種)
御射山神戸(みさやまごうど) 御射山とは、御狩野や競技場を指し、神戸とは、神様のお膝元、口元、とでも言う意味でしょうか?諏訪大社の社領であった原山の上社奥社である御射山で祭事賦役に古くから奉仕してきた人達の集落。そのエリアが今は御射山神戸と複合的な地名で呼ばれている。江戸時代には甲州街道の蔦木宿と金沢宿の合いの宿として発達したが、現在国道20号となった旧甲州街道に昔の面影が残っています。
神戸八幡(ごうどはちまん) 現在の建物は宝暦2年の建立。
神戸八幡社の欅は、推定年齢390年、富士見町指定天然記念物。
御射山神戸(みさやまごうど)の一里塚 樹齢300年以上の見事な欅の大木がある。
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